【試合情報】
第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会 決勝
FC東京 4-2 京都サンガF.C.
その傷がかさぶたになり、剥がれ落ちるまでには時間が掛かった。だけど、12年後の森重真人は言う。
「あの時間は必要だった」
2010年のJ1リーグ最終節で京都サンガF.C.に0―2で敗れ、J2リーグ降格が決まった。試合直後、か細い声で「申し訳ない」と言い、言葉を詰まらせた。加入初年度のその年は負傷明けでコンディションが整わず、シーズン序盤から余計なファウルを重ねた。その結果、カードをもらい続け、たびたび試合をぶち壊した。年間を通じて4試合で出場停止となり、その責任の重さを痛感させられた。
翌年のチーム始動日だった。小平グランドの取材エリアで呼び止めると、意を決したように言葉にした。
「降格はオレの責任です。自分のことは、年間ワーストプレーヤーだと思っています。ミスで試合を台無しにしたし、チームには迷惑を掛けた。ここから人としても成長しないといけない」
その宣誓が始まりだった。サッカーへの向き合い方を変え、日々の目標を自らに課す。入念な準備と、丁寧に過ごす毎日を繰り返す。「人間には弱い部分がある。そことどう戦い勝っていくのか。自分の中では必死にやってきた」。そこで養われた克己心によって、その後の成功を掴み取っていくことになる。
苦みばしったいい男の顔になった今、あの日のことをこう振り返る。
「自分のサッカー人生で、いったん立ち止まって整理する上で必要な時間だったと思う。間違いなくあの後から自分のサッカースタイルがつくり上げられた。自分自身選手としてサッカーに向き合うことを含め、日々の準備だったり、ケアだったり、選手として必要なことを考えて自分のモノにするきっかけになった。成功をつかむことで正しさも証明されたし、自分もできるという自信を持てた。そこからは好循環というか、結果が出たら新たな目標を設定するサイクルも生まれていった」
J2リーグ優勝直後の天皇杯制覇。そしてACLへ
そして、ここからが今回のコラムの本題だ――。懐かしいカードが、改修された聖地・国立で開催される。そこでアーカイブの中から2012年1月1日の天皇杯決勝の映像を引っ張り出し、久しぶりに見返してみることにした。
青赤は2011年のJ2リーグを勝ち抜き、至上命題に掲げたJ1リーグ復帰を成し遂げる。年が明けた翌年の元日、彼らは国立のピッチに立っていた。初優勝を懸けた対戦相手は、奇しくも降格が決まった前年度の最終節と同じ京都だった。
Jリーグ発足後初のJ2対決の決勝が幕を開ける。解説の(長谷川)健太さんにまず驚き、出場選手以外で映像に見切れる知った顔の多さに懐かしさを覚えた。試合前、観客席からは聞き慣れた「国立~国立~オレたちの国立~♪」のチャントが響き渡っていた。
試合は前半13分に京都に先手を許し、「先制されて京都にはこうなるのか」という嫌な流れもあった。だが、2分後に今野泰幸がセットプレーから同点に追いつき、すぐに試合を振り出しに戻す。
「悔しさを持ち続けたからこそ、先制されてもズルズル行かずに勝利をもってくることができた」
そして、試合中に起きた地震情報の映像を挟み、放送が再開される。その直後、敵陣で谷澤達也が倒され、直接フリーキックを獲得する。ゴールまでの距離は30メートル。スタンドからは森重コールが沸き起こる。セットしたボールの前には石川直宏と並び、2人は短く会話を交わす。
「無回転は得意だった。ちょっと動かしたほうが蹴りやすいから右前のほうにチョンってやってくれないかと話した。距離もあったので、ナオさんが狙うということもなかった。じゃあ一か八かでオレ蹴ってみますという感じだった」
広島皆実からプロ入りし、高校サッカーの聖地でもあった国立への思い入れは強かった。
「全国で優勝争いをするようなチームではなかったので、夢のまた夢の場所。憧れだけど、手の届かない遠い存在だと思っていた」
その夢舞台で、森重が勢いよく右足を振った。足の甲にある骨が人よりも大きく、「ボコッと出っ張ったところに当たればブレ球が飛ぶ」。実況が「背中から聞こえてくる森重コールに乗るようにしてボールがブレていきました」という強烈な一撃は、無回転でゴールへと吸い込まれていった。
このスーパーゴールで勝ち越すと、その後はルーカスが圧巻の2得点で京都を突き放した。パスがつながる度に繰り返される「オーレ」の掛け声や、今も耳に残る応援歌の数々。その全てが良い思い出の一部だった。試合終了の笛が鳴ると、チームメイトと笑顔で抱擁を交わした。
「2年間苦しんで、J2で優勝しただけじゃなく、天皇杯でも優勝できた。僕自身にとっても初めての天皇杯のタイトルだった。ファン・サポーターとも今まで苦しんだ分お祭り騒ぎができて良かった」
表彰式を終え、ミックスゾーンに現れた森重は囲み取材を終えて階段に腰を落とす。「あんなシュート持っていたんだ?」と聞くと、「持ってたんですよ」とニヤリと笑った。悲しい思いをさせたファン・サポーターに向け、初のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)行きのご褒美を贈ることもできたからだろう。その表情には安堵がにじんだ。その顔が忘れられない。そう伝えると、「生意気っすね」と言ってこう語った。
「あの時代に代表ではなく、Jリーグの一クラブとしてアジアのチームと戦うことができた。それがどれだけ楽しく、ワクワクすることなんだって知ることもできた。選手も、スタッフも、ファン・サポーターも一緒に味わえた。それは大きかったと思う」
10年後の国立での再戦と「東京のいまのサッカー」
10年の時を超え、あの日の両チームが国立で顔を合わせる。森重は新国立競技場で初のJ1リーグ開催となった4月29日のガンバ大阪戦は負傷で欠場した。今回、国立のピッチに立てば2020シーズンのYBCルヴァンカップ決勝以来となる。
「東京はお祭りごとには強い。モチベーションが上がれば、このチームは強いと十何年いて感じる。それがいいのか悪いのか分からないけどね。そういう大事な試合や、お祭りのときは勝率が高いから」
12年前、自責の念を込めてJ2降格を招いた張本人だと自らを呼んだ。ズキズキした、あの日の傷の痛みを忘れることはない。冗談交じりに「うまくばれないように力を抜きながらやってきた」というが、いまも入念な準備と変わらぬ日々を過ごしている。積み重ねた年月の長さの分だけ、ともにした多くの思い出も増えた。
「東京で育ってきた。ずっと応援してくれているファン・サポーターは、良い時も悪い時もオレのことを見守ってくれた。そろそろ何かを成し遂げないといけないと思っている。まだまだあぐらをかいてやるわけにはいかない。一選手として戦う姿を見せることがチームのためになるし、見ている人に何かを感じてもらえることになる。それを忘れたくはない。プラスアルファで、東京が今取り組んでいるサッカーを表現したい」
開けっ広げに愛を語るタイプじゃない。でも、あえて聞くと、「東京愛? 誰よりもあるでしょ。それはこの13年で証明してきたから」という。さらに、「相思相愛になれたか?」と突っ込む。「どうですかね。自分では分からないけど…」の答えに残った余韻は「やり残したことがある」で埋まった。
森重が東京と共に歩んできたキャリアで初めて手にした天皇杯のタイトルが、アジアへの道を切り開くきっかけとなった。痛みを覚えた試合も、救われた試合もある。そうやって深めた、青赤との関係。サッカーが人生に与える影響は少なからずある。それは身をもって知っている。
じゃあ、いまの東京のサッカーは?
「自分自身、もっともっとやりたい、楽しいと思えるサッカーだと思う。楽しくないと続けられない人間なので。楽しいことをできている幸せはある。ただ楽しいわけじゃない。勝つからこそ楽しい。それをできるだけ長く楽しめるように、まだまだいい準備を続けたい。ボール? まだまだ蹴りたいよね」
ときには日々に没頭するあまり、「近寄りがたい雰囲気をつくってしまい、自分にフォーカスし過ぎたこともあったと思う」。でも、変わってきた。最近、それまで口にしなかった「みんなで」という言葉がコメントの端々に増えてきたからだ。ついた傷も、剥がれたかさぶたもひとつじゃない35歳が思う、シンプルなサッカーの楽しみ方。このとき口にした「できるだけ長く楽しみたい」にも「みんなと」がくっついて聞こえた。
Text by 馬場康平(フリーライター)